1.私の原点-貧困、そして働くひとびと-
生い立ちにもちょっと書きましたが、私の家は私の中学生の頃から経済が傾き始め、高校3年(1962年(昭和37))の頃にはひどい状態になり、もう二進も三進もいかなくなっていました。高校3年の11月に、鶴来町から金沢市へ移住しましたが、殆どすべての財産を失っての移住でした。5人きょうだいの長男であった私は、心身共に萎えた父母を支え、4人の妹弟をなんとか食べさせる責任を負いました。一家総出の新聞配達の中心は私でした。経験したことのある人にとっては恐怖の三八豪雪の中を、毎朝毎夕新聞を配り続けました。野原の一軒家へたった1枚の新聞を配達するのに、数十分を費やす毎日でした。大学受験の日も、もちろん朝夕の新聞配達をしていました。のちに司法試験を受験するようになったときも、受験当日朝夕の新聞配達をしていました。大学生活5年間、わが家を支えたのは一家総出の新聞配達、私の奨学金・1週7回の家庭教師代、春、夏、冬の長期休暇中のアルバイト代でした。私は、このように、中学生の頃からずっと生活の苦しみの中にありました。私自身のことよりも、父母、妹や弟達の生活を成り立たせなければならないという責任感で過ごしてきました。この間、父母の病気、父の刑事裁判等が相次ぎ、激動のなかで、私がすべてを支えてきたのです。ケネディ暗殺、三島由紀夫の自害、学生運動の高揚等のなかで、セクトの学生と付き合うこともありましたが、実生活に根差さない彼らの議論に失望し、離れました。いまの若い人達はあまり知らないでしょうが、全共闘運動を支持し、若くして死んだ高橋和巳の「憂鬱なる党派」「邪宗門」「暗殺の美学」「散華」等の沈鬱な小説、柴田翔、真継伸彦の小説を耽読したものでした。孤独な青の時代でした。
1.私の原点-貧困、そして働くひとびと-
生い立ちにもちょっと書きましたが、私の家は私の中学生の頃から経済が傾き始め、高校3年(1962年(昭和37))の頃にはひどい状態になり、もう二進も三進もいかなくなっていました。高校3年の11月に、鶴来町から金沢市へ移住しましたが、殆どすべての財産を失っての移住でした。5人きょうだいの長男であった私は、心身共に萎えた父母を支え、4人の妹弟をなんとか食べさせる責任を負いました。一家総出の新聞配達の中心は私でした。経験したことのある人にとっては恐怖の三八豪雪の中を、毎朝毎夕新聞を配り続けました。野原の一軒家へたった1枚の新聞を配達するのに、数十分を費やす毎日でした。大学受験の日も、もちろん朝夕の新聞配達をしていました。のちに司法試験を受験するようになったときも、受験当日朝夕の新聞配達をしていました。大学生活5年間、わが家を支えたのは一家総出の新聞配達、私の奨学金・1週7回の家庭教師代、春、夏、冬の長期休暇中のアルバイト代でした。私は、このように、中学生の頃からずっと生活の苦しみの中にありました。私自身のことよりも、父母、妹や弟達の生活を成り立たせなければならないという責任感で過ごしてきました。この間、父母の病気、父の刑事裁判等が相次ぎ、激動のなかで、私がすべてを支えてきたのです。ケネディ暗殺、三島由紀夫の自害、学生運動の高揚等のなかで、セクトの学生と付き合うこともありましたが、実生活に根差さない彼らの議論に失望し、離れました。いまの若い人達はあまり知らないでしょうが、全共闘運動を支持し、若くして死んだ高橋和巳の「憂鬱なる党派」「邪宗門」「暗殺の美学」「散華」等の沈鬱な小説、柴田翔、真継伸彦の小説を耽読したものでした。孤独な青の時代でした。
2.私の迷い
幸い、私は大学を卒業した年の9月に司法試験に合格することができました。一体いつ司法試験の受験勉強をする時間があったのか。新聞配達、アルバイトに明け暮れた私にはいまとなってもその時間を捻出できたことを不思議に思うくらいです。晴れて司法研修所に入所したあと、しかし、私は父母や弟達の生活を支えるために、切り詰めた生活を続けることを余儀なくされました。勉強をすることはしましたが、生活の苦しさから逃れることはできませんでした。修習も終わりに近づいたとき、青年法律家協会員は裁判官になることができないそうだ、という情報が私達のなかに入ってきました。生活苦の只中にあった私には、弁護士として活動し、金儲けをするという選択肢もあったでしょうが、なぜか私としてはそうした思いを持つことが一度もありませんでした。弁護士になるのだろうな、という漠然とした思いはあったものの、なかなか形にならないでいるときに青法協問題が勃発したのです。
2.私の迷い
幸い、私は大学を卒業した年の9月に司法試験に合格することができました。一体いつ司法試験の受験勉強をする時間があったのか。新聞配達、アルバイトに明け暮れた私にはいまとなってもその時間を捻出できたことを不思議に思うくらいです。晴れて司法研修所に入所したあと、しかし、私は父母や弟達の生活を支えるために、切り詰めた生活を続けることを余儀なくされました。勉強をすることはしましたが、生活の苦しさから逃れることはできませんでした。修習も終わりに近づいたとき、青年法律家協会員は裁判官になることができないそうだ、という情報が私達のなかに入ってきました。生活苦の只中にあった私には、弁護士として活動し、金儲けをするという選択肢もあったでしょうが、なぜか私としてはそうした思いを持つことが一度もありませんでした。弁護士になるのだろうな、という漠然とした思いはあったものの、なかなか形にならないでいるときに青法協問題が勃発したのです。
3.裁判官になる
結局私は裁判官になるという道を選びました。青法協会員のまま裁判官になるということは、困難を承知で裁判官になることです。それでもいいのだね、と繰り返し自問しながら、私は裁判官になりました。裁判官になって、こんなことをしたい、あんなことをしたい、なにかになりたい等という思いは全くありませんでした。最高裁の言いなりにはならない。そのことだけは誠にはっきりしていましたが、そのほかは、体験のなかで考えていこうという極めて大ざっぱな思いしかありませんでした。裁判官になったあと、私は刑事→民事→少年→刑事→家事→支部勤務をし、その間全ての分野について経験しました。目の前にくる当事者をどうしたら納得させ、あるいは満足させることができるか、ということに考えを集中してきました。そのための工夫ということが私の中心のテーマでした。論理から入るのではなく、目の前にいる当事者のもってきている現実に耳を傾け、そのなかからどのような解決がふさわしいかを考え、解決の仕方を突き詰める。論理の組立ては、その事件自体が決めることだ。事件を最終的に彫り刻む論理は、事件自体が求めているものを形にすることだ。私はこのように考えて、事件に接してきました。ひとの叫び、ひとの生きざま、ひとの営みと離れて論理を弄んではならない。それは法律家の倫理上許されない。このように考えてきたのです。そうした経験から、長くはない私の裁判官生活のなかで、刑事事件において3件の無罪判決を書き(これらはいずれも一審で確定しました。そのほかにも殺人未遂事件を暴行罪と認定する等起訴された事実を縮小して認定する判決も3件ありました)、少年事件と家事事件に関して実務ノート的な論文を書きました。民事裁判は合議1年、単独2年という短い経験でしたので、裁判例集に載る事件は2件しかありませんでしたが、いずれも私の実務上の経験を論理化したものでした。仕事のほかに、私は青法協裁判官部会や宮本裁判官の再任拒否をきっかけにして立ち上げられた裁判官懇話会の活動にずっとかかわりました。退官するまでかかわり続けました。私の役割は文字通り小使い役でした。次に続く人がいなかったため、私は最後まで小使い役でした。「出口君、大将になっている人はいいが、足軽は一番ワリをくうよ。」と、私の尊敬する裁判官は、私のことを気の毒がってみていました。
3.裁判官になる
結局私は裁判官になるという道を選びました。青法協会員のまま裁判官になるということは、困難を承知で裁判官になることです。それでもいいのだね、と繰り返し自問しながら、私は裁判官になりました。裁判官になって、こんなことをしたい、あんなことをしたい、なにかになりたい等という思いは全くありませんでした。最高裁の言いなりにはならない。そのことだけは誠にはっきりしていましたが、そのほかは、体験のなかで考えていこうという極めて大ざっぱな思いしかありませんでした。裁判官になったあと、私は刑事→民事→少年→刑事→家事→支部勤務をし、その間全ての分野について経験しました。目の前にくる当事者をどうしたら納得させ、あるいは満足させることができるか、ということに考えを集中してきました。そのための工夫ということが私の中心のテーマでした。論理から入るのではなく、目の前にいる当事者のもってきている現実に耳を傾け、そのなかからどのような解決がふさわしいかを考え、解決の仕方を突き詰める。論理の組立ては、その事件自体が決めることだ。事件を最終的に彫り刻む論理は、事件自体が求めているものを形にすることだ。私はこのように考えて、事件に接してきました。ひとの叫び、ひとの生きざま、ひとの営みと離れて論理を弄んではならない。それは法律家の倫理上許されない。このように考えてきたのです。そうした経験から、長くはない私の裁判官生活のなかで、刑事事件において3件の無罪判決を書き(これらはいずれも一審で確定しました。そのほかにも殺人未遂事件を暴行罪と認定する等起訴された事実を縮小して認定する判決も3件ありました)、少年事件と家事事件に関して実務ノート的な論文を書きました。民事裁判は合議1年、単独2年という短い経験でしたので、裁判例集に載る事件は2件しかありませんでしたが、いずれも私の実務上の経験を論理化したものでした。仕事のほかに、私は青法協裁判官部会や宮本裁判官の再任拒否をきっかけにして立ち上げられた裁判官懇話会の活動にずっとかかわりました。退官するまでかかわり続けました。私の役割は文字通り小使い役でした。次に続く人がいなかったため、私は最後まで小使い役でした。「出口君、大将になっている人はいいが、足軽は一番ワリをくうよ。」と、私の尊敬する裁判官は、私のことを気の毒がってみていました。
4.弁護士に転ずる
弁護士になってのち、私は最高裁による制約から解放され、やりたい事件を存分にやってきました。少年や家事事件の分野は無論ですが、福祉、公害、教育等々の分野に担当事件がひろがり、弁護人の接見妨害事件、さらには自衛隊のイラク派遣差止事件にも関与しました。
4.弁護士に転ずる
弁護士になってのち、私は最高裁による制約から解放され、やりたい事件を存分にやってきました。少年や家事事件の分野は無論ですが、福祉、公害、教育等々の分野に担当事件がひろがり、弁護人の接見妨害事件、さらには自衛隊のイラク派遣差止事件にも関与しました。
5.庶民とともに-私の信念-
この間バブルの時期に遭遇しましたが、鈍くさい私は、不動産取引事件に一件も当たりませんでした。地上げ事件を担当すれば、さしたる仕事をしなくても高額の報酬を手にできたのですが、なぜか私の前にそうした事件は一件も現れませんでした。かくて、私は、経済的な苦しみと立ち向かいながら、庶民とともに歩んできました。若い、まだ自分が法律家になる前に出会った名もない、働いても働いても楽にならない人達のことがずっと私の脳裏にありました。私に与えられている能力を、そうした人達のために使いたい。そうした信念で私は今日まで法律家の道を歩んできました。このあと私が法律家としてどれだけ活動できるかわかりませんが、その信念は終生かわることはありません。
皆さんの語ること、訴えることに、私はじっくり耳を傾けます。できないこと、やってはいけないことのお手伝いはしませんが、全ての皆さんの苦しみや悩みを聴き、問題解決のために私の41年余りの積み重ねた経験に基づき、あらゆる知恵を絞ります。問題を抱えて苦しみ悩み、迷っている方々を、私は喜んでお迎えいたします。これまで取り扱ってきた分野は、民事、家事全般、行政事件、刑事・少年、学校事故、子どもの人権、高齢者・障害者問題等広い範囲にわたりますので、なんなりとご相談下さい。
5.庶民とともに-私の信念-
この間バブルの時期に遭遇しましたが、鈍くさい私は、不動産取引事件に一件も当たりませんでした。地上げ事件を担当すれば、さしたる仕事をしなくても高額の報酬を手にできたのですが、なぜか私の前にそうした事件は一件も現れませんでした。かくて、私は、経済的な苦しみと立ち向かいながら、庶民とともに歩んできました。若い、まだ自分が法律家になる前に出会った名もない、働いても働いても楽にならない人達のことがずっと私の脳裏にありました。私に与えられている能力を、そうした人達のために使いたい。そうした信念で私は今日まで法律家の道を歩んできました。このあと私が法律家としてどれだけ活動できるかわかりませんが、その信念は終生かわることはありません。
皆さんの語ること、訴えることに、私はじっくり耳を傾けます。できないこと、やってはいけないことのお手伝いはしませんが、全ての皆さんの苦しみや悩みを聴き、問題解決のために私の41年余りの積み重ねた経験に基づき、あらゆる知恵を絞ります。問題を抱えて苦しみ悩み、迷っている方々を、私は喜んでお迎えいたします。これまで取り扱ってきた分野は、民事、家事全般、行政事件、刑事・少年、学校事故、子どもの人権、高齢者・障害者問題等広い範囲にわたりますので、なんなりとご相談下さい。
6.私の信念 -一遍を想う-
「法主(一遍自身のこと)軌則をこのまねば 弟子の法師もほしがらず誰を檀那と頼まねば 人にへつらふ事もなし」(一遍「百利口語」の一節より)
「専ら平等心を起こして、差別の思ひを成すことなかれ。専ら慈悲心を発して、他人の愁ひを忘るることなかれ。専ら柔和の面を備えて、瞋恚の相を現はすことなかれ。」(一遍「時衆制誡」の一節より)
「念仏の行者は知恵をも愚痴をもすて、善悪の境界もすて、貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるゝ心もすて、極楽を願ふ心もすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてゝ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。」(一遍「興願僧都、念仏の安心を尋申されけるに、書てしめしたまふ御返事」の一節より)
「弥陀大悲のむねのうちに かの常没の衆生みちみちたるゆえに 機法一体にして南無阿弥陀仏なり われらが迷倒の心の底には 法界身の仏の功徳みちみちたまえるゆえに また機法一体にして南無阿弥陀仏なり」(「安心決定鈔」の一節より)
法然の800回忌、親鸞の750回忌が本年(平成23年)営まれています。南無阿弥陀仏を称えればすべての衆生を救ってくださると、説いたのは法然でした。その法然の法理を実践したのが一遍そのひとでした。一遍の思想と実践は文字どおり渾然一体となっていますが、一遍流の教えを説いたともいわれる「安心安定鈔」のなかで述べられている常没の衆生と阿弥陀仏の一体を説く上の一節を私は愛してやみません。阿弥陀仏の救済の姿を、弥陀大悲のむねのうちに常没の衆生がみちみちているとあらわし、そして、われら常没の衆生の迷いの心の底に阿弥陀仏の功徳がみちみちているのだよ、と呼びかけてくれる。弥陀の大悲にわれらの迷う心が包まれ迷いのままに救われていくという思いが、私にはひしひしと伝わってくるのです。市の聖といわれた空也、遊行上人といわれた一遍の教えを、私は法の実践のなかで生かしていきたいと願っています。どうぞ事務所の扉を叩いて下さい。心からお待ちしています。
6.私の信念 -一遍を想う-
「法主(一遍自身のこと)軌則をこのまねば 弟子の法師もほしがらず誰を檀那と頼まねば 人にへつらふ事もなし」(一遍「百利口語」の一節より)
「専ら平等心を起こして、差別の思ひを成すことなかれ。専ら慈悲心を発して、他人の愁ひを忘るることなかれ。専ら柔和の面を備えて、瞋恚の相を現はすことなかれ。」(一遍「時衆制誡」の一節より)
「念仏の行者は知恵をも愚痴をもすて、善悪の境界もすて、貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるゝ心もすて、極楽を願ふ心もすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてゝ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。」(一遍「興願僧都、念仏の安心を尋申されけるに、書てしめしたまふ御返事」の一節より)
「弥陀大悲のむねのうちに かの常没の衆生みちみちたるゆえに 機法一体にして南無阿弥陀仏なり われらが迷倒の心の底には 法界身の仏の功徳みちみちたまえるゆえに また機法一体にして南無阿弥陀仏なり」(「安心決定鈔」の一節より)
法然の800回忌、親鸞の750回忌が本年(平成23年)営まれています。南無阿弥陀仏を称えればすべての衆生を救ってくださると、説いたのは法然でした。その法然の法理を実践したのが一遍そのひとでした。一遍の思想と実践は文字どおり渾然一体となっていますが、一遍流の教えを説いたともいわれる「安心安定鈔」のなかで述べられている常没の衆生と阿弥陀仏の一体を説く上の一節を私は愛してやみません。阿弥陀仏の救済の姿を、弥陀大悲のむねのうちに常没の衆生がみちみちているとあらわし、そして、われら常没の衆生の迷いの心の底に阿弥陀仏の功徳がみちみちているのだよ、と呼びかけてくれる。弥陀の大悲にわれらの迷う心が包まれ迷いのままに救われていくという思いが、私にはひしひしと伝わってくるのです。市の聖といわれた空也、遊行上人といわれた一遍の教えを、私は法の実践のなかで生かしていきたいと願っています。どうぞ事務所の扉を叩いて下さい。心からお待ちしています。
私の事務所は「庶民」の法律事務所です。
庶民とは、国語辞典では「世間一般の民衆、大衆」とされています。
法律のことでお困りになっている世間の民衆の人達のための
お力になりたいと願っている法律事務所です。
いつの世、いつの時代でも、社会を支えているのは名もない「庶民」ですが、
私はそのような人達とともに腕を組み、手をたずさえて歩みたいと思っています。
出口治男